殺人の動機とハードボイルドワンダーランド

保険金殺人。
強盗殺人。
介護疲れの殺人。
秋葉原の事件。
中三少女の父親殺害。


社会は上三つと下二つを区別したがるようだ。
上の三つ(以下甲)に関しては「動機」が社会において「市民権」を得ているとでも言おうか。
そう、いわゆる「わかりやすい」事件なのである。
お金がほしかった、必要だった。
毎日一日中寝たきりの人の世話をしていることに心身ともに疲れきってしまった。
そう、ある程度共感でき、一般の人なら持ちうる感情。
そうすると人はその事件をわかった「つもり」になる。
カタチを把握をすると恐怖が薄まる。
だからそこまで騒がない。


それに対して下二つ(以下乙)は「わかりにくい」事件として問題扱いされる。
なんであんなにたくさん殺したの?殺す必要があったの?
前日まで普通(を装って)に生活していた家族をなんで殺せるの?
全く共感できない。
事件がわからない「つもり」になる。
把握できないから恐怖が消えない。
大変なことが起きた。
社会の危機だ。


でもその区別ってどういう意味があるの?


まず、甲類の事件の動機がわかる、共感できることってわからないよりもずっと危険なことじゃないの?
理解できてしまうということは、自分だっていつそのような行為に走るかわからない。
そして周りの人だっていつそういうことをしたっておかしくない、そんな事件ということになる。
わかるからこそいつもそばにその危険は存在するのである。
「恐怖が弱い」ということは「危険じゃない」と同義ではない。
危険に鈍感になるということだろう。
そして、身近な危険ほど、鈍感にならなくてはいけないことから「理解」が生まれるのである。
(交通事故なんかが良い例だ。あんなに人が死んでるのにそこまで意識にのぼってこない。)


そして僕は思う。
だから甲類の事件の動機だって真の意味で理解できていない。
というか乙類事件と比べても、いくらかの理解もできていないはずだ。
この場合の「理解」とは結局恐怖感、不安感を和らげるためのツールでしかないのだろうと。
そう、「わかった『つもり』になって危険に鈍感になろう!」キャンペーン実施中なのである。
とすれば、上記区別というのは危険が身近にあるかないか、の区別でしかないということになる。


「だから区別をするな」、ということを言うつもりはない。
そうではなくて、上記区別で乙類に分類された事件が社会に危険を及ぼすというような考えはズレているということを言いたいのだ。
「市民権」を得た動機だって社会的危険性を帯びているものはたくさん存在するし、理解されない動機にだって社会危険性のないものがある。
キャンペーンなんかに乗っかって見失わないでほしいと思っているのである。


ちなみに、僕は乙類の例としてあげた事件の動機もなんとなく「理解」できてしまうので、辛いです。