死刑執行。

こんな意見を耳にした。


「死刑囚の反省を待たずして死刑執行することはどうなのだろうか?」


要するに、遺族が納得するか、社会が納得するか、ということへの疑問なのだろう。


笑ってしまう。


死刑が是か非か、という問題についてはおいておくとして、そもそも死刑とはどのような意義を有するのか。
日本刑法における「罰」とは、応報刑的側面と教育刑的側面を有する。
簡単に言うと、応報刑とは「目には目を、歯には歯を」というようなもの。
教育刑とは罪を犯したものが社会復帰、更生できるような刑を与える、というもの。
例えば、懲役というのはただ単に犯罪者の自由を奪う(応報刑)だけでなく、刑務所内においてなんらかの社会的作業をさせ(教育刑)る刑である、というようなものである。
それに対立する刑は、禁錮というものである。
内乱罪のような、社会更生を見込めないような罪について適用される。


では死刑とは、どのような性質を持った刑であるか。
国家権力を使って人の生命を奪う行為、これは社会更生が不可能であるという大義名分でもないと為せないものであろう。
日本刑法は、どんな罪を犯しても社会更生の可能性さえあれば命を奪うべきではない、という建前をとっているからである。
したがって死刑は教育刑的側面を持ち合わせていない。
だから、反省などそもそも必要のない刑なのである。


「それでは遺族、社会の気持ちがおさまらない」という意見もあるかもしれない。
しかし日本は、罪が刑法に基づいた刑罰で裁かれることによって償われるというシステムで動いている。
したがって、刑の執行が償いであって、反省は償いに入らない。
(もちろん、そのシステムに則して考えるのならという条件付意見であるが。)
つまり上記批判は、反省もなく死刑が行われることとは関係がなく、「償い=刑法に定められた刑の執行」という客観的な刑罰制度に関係するものである。


とにかく、死刑制度を否定しないのなら死刑執行について冒頭のような批判をするな、と言いたいのだ。