旅と落書き

フィレンツェの大聖堂に落書きをした事件について、幾人かのコメンテータが
「歴史的建造物に落書きするなんて言語道断だ!」
おいうようなことを言っていた。


私はとても違和感を覚えるのである。
確かに、冷静に考えればそのようなことをすることがいけない事だというのは自明の理だろう。
しかし、旅行というアバンチュールな体験に身を委ね、友人と自由な時間を過ごすようなことがあれば、気も大きくなるし、正常な判断能力など期待できるものではない。
そんな状態って万人に共通するものだと思う。
それを、ただ単に客観的な立場から「言語道断」「考えられない」などと言われると、なんと浅はかな意見しか唱えられないお方なのでしょう貴方は、と溜息をついてしまうのだ。


つまり何を言いたいかというと、いつ自分があのような状況に立たされるかわからないという視点からの意見が欲しかった。


あの行為の一番良くなかった点は、「歴史的建造物に落書き」という行為のセンスのなさである。
そう、一つも面白くない。
あの行為によって得をした者は誰一人いないのである。


逆に言えば、誰かが得をする、面白いだろうと思って為した行為であればそれは非難すべきではない。
非難するとすればそれは、その行為が結果的に面白くなかった、誰も得をしなかったということについてだけである。
(今さら、面白いなら何だって許されるのか、なんて思ってもらっては困る。そういう冷静な判断が出来ない状態の対処法と論じている。明日はわが身である。)


繰り返すが、罰として、社会倫理として言っているのではない。
個人としての心のケリのつけ方である。
この行為において、一番当事者が辛いのは、冷静な自分に戻ったときに「なんでこんな事してしまったんだろう・・」という気持ちであるはずだ。
それを解消できるのは、冷静な自分を納得させられるのは「面白かった」「何か意味があった」という大義名分であろう。


結論としては、冷静な判断だ不可能なほどにテンションが上がっているときは唯一つ、今から自分のやる事が面白いか、それだけを考えていれば個人的には救われる。
そして少数ではあるだろうが、理解者も獲得できるだろう。
覚えておこう、どんなときも面白いかどうかという判断基準だけは捨てちゃいけない。